近代というのは、世界地図に国境という線を引き、その線の中のことはそれぞれの国家に任せるという約束事で成り立っている。これが主権国家で、なにものも侵すことのできない神に等しい権力を有しているとされている。
この権力はとても強大で、私たち一人ひとりの人生に大きな影響を与える。私たちはグローバルな資本主義と市場経済の中で生きていかざるをえないが、それと同時に、ローカルな国家から独立した生活を送ることもできない。
民主制国家の目的は、建て前上、主権者である国民の幸福を最大化することだ。そのため不幸なひとたち(幸福が最大化されていないひとたち)は、国家に対して援助を求める権利があると考えられている。
ここまでは誰も異存はないだろうが、すぐにやっかいな問題があることに気づくだろう。「不幸なひと」っていったい誰だ?
いうまでもないことだが、人生のすべてに満足しているひとはそれほど多くない。幸福や不幸は他人との比較から生まれてくる感情だから、社会的には成功者と見なされていても、本人は屈辱と嫉妬の泥沼をのたうち回っていることだってあるだろう。だがこうした不幸をすべて国家が救済するわけにはいかないので、どの国も一定の外形的な基準を設け、それを満たさないひとを「社会的弱者」として援助の対象としている。
ところで日本の官僚機構は、サービスの提供にあたって申請主義を原則としている。派遣切りにあって寮を追い出され、貯金もなく野宿を余儀なくされるのは明らかに不幸な状況だろうが、それだけでは行政は援助の手を差し伸べてくれない。利用者は自治体の窓口に自ら足を運び、必要な書類を整えたうえで失業保険や生活保護を申請しなければならないのだ。国家の援助を受けられるのは、自分自身で「社会的弱者」であると証明したひとだけなのだ。
都心の公園にはホームレスたちのテントがずらりと並んでいる。その生活環境は憲法が保障する「健康で文化的な生活」からほど遠いが、生活保護どころか健康保険すらないままに放置されている。なぜなら彼らは住所がないので、行政上の「弱者」になることができないのだ。
行政の杓子定規な対応は理不尽ではあるが、もっともな理由もある。財源に限りがある以上、サンタクロースのようにお金を配って歩くわけにはいかない。行政サービスは、ルールに則った適正な手続きで執行されなくてはならないのだ。
官僚制の本質は非人間性にある。これは言い換えれば、国家は国民を無差別に扱わなくてはならないということだ。生活保護の申請を受け付ける際に、自治体職員が一人ひとりの「人間性」を判断していたら現場は大混乱に陥るだろう。職員の善意や悪意とは無関係に、提出された書類に基づいて機械的に処理するのが正しい行政のあり方なのだ。
国家は、母親のような愛情をもって国民の世話をするわけではない。だからといって特定の目的(たとえば戦争)のために国民を監視し、洗脳し、訓育しているわけでもないだろう。官僚機構に目的があるとすれば、組織として存続し、自己増殖しつづけることである。
国家もまた、法人の一種だ。ひとであってひとでないものに過度な愛情や幻想を抱いても、それに応える人間的な感情など持ち合わせていないのだから、いずれは裏切られて落胆するだけだ。
私たちは、国家のない世界を生きることはできない。国家を否定し、革命を目指すのは自由だが、大多数のひとは無政府主義の理想を目指そうとは思わないだろう。生き延びるためになすべきなのは、国家に依存するのでも権力を拒絶するのでもなく、国家の仕組みを観察し、理解し、道具として利用することだ。
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